第33話 蛍

あまりに気持ちがくさくさして、
持て余しそうだったので、
あたしは気分転換することにした。

夕食後、看護師の目を盗み1階に降り、
救急搬入口から外に出てみた。
春とは言え、夜はまだ寒い。
風が手首の傷跡にしみた。

あたしはそのまま外来駐車場の方向へ歩き、
ちょうど救急搬入口の真裏あたりで、
歩道と車道を区切る太いパイプの柵に腰かけた。

病院の敷地を囲むように植えられた桜が
5分咲きくらいに咲いていた。
この桜が満開の頃には退院だろうか。

退院時には激鬱になりそうな予感だ。
こんな心理状態で退院を耐える自信がない。
そろそろ頓服の安定剤でも密かに貯めておこうか。

そんな事を考えながら、
しばらくぼんやりと車道の路面を見つめていた。
面倒な事にならないうちに戻らないと。
そう思った時だった。

「...関屋さん?」

キッと油の足りないブレーキ音がして、
大きな影がもそりとした声であたしを呼んだ。
あたしは顔を上げた。
そこには寺内先生がいた。

なんでこいつがこんなとこにいるんだ。
彼はボロそうなママチャリにまたがっていた。
どうやらこれは通勤用チャリのようだ。

暗い色の上着の間から見えるシャツの腹が、
むちむちぱつぱつしていた。
さすがもっさいおっさんだ。

「先生...」

やばいな。
もっさいおっさんは自転車から降りて、
スタンドを立てた。
はあ...小言でもくらわすつもりか。

しかし彼は、柵にもたれるようにしてあたしの隣に立ち、
ズボンのポケットからたばこを取り出し、
1本くわえると丸っこい手で風をよけながら、
透明水色の使い捨てライターで火をつけた。

「ん」

彼はもう1本たばこを取り出し、
あたしの口にそれを挿し込んだ。
吸えと。
ありがたく頂くとしよう。

もっさいおっさんはあたしのために、
再度丸っこい手で覆うように風をよけながら、
ライターに火をつけてくれた。

あたしはたばこをくわえたまま、火に顔を近付けた。
彼の手の内でたばこに赤い火が灯り、煙が立ち上った。

寺内先生がライターの火を消し、
かざしていた手をおろすと、2匹の赤い蛍が現れた。
蛍は近付くでもなく離れるでもなく、
時々揺れながら春の夜の生暖かい風の中を舞った。

そこに言葉はなかった。
お互い何も説明する必要も、言う必要もなかった。
揺れる蛍火が、今の全てを語ってくれていた。

もっさいおっさんは、どこかで
おまけにもらったような携帯灰皿を持っていて、
あたしがたばこを吸い終わるまでその口を開けていた。
あたしがたばこを消すと、
彼は灰皿を閉じて自転車のスタンドを上げた。

「じゃあまた明日」

彼はもそりと言って自転車にまたがった。

「おう」

あたしも言って、軽く手をあげた。
そして、彼の後ろ姿を見送らず、
体をひらりと右に回して歩き出した。

たばこの匂いを消したいから、
ちょっとゆっくり歩いて部屋に戻ろうか。
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