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第32話 心の声の導くままに
心の声の導くままに、
カッターナイフの刃を左手首に当て、
ゆっくり力を込めていった。
ぷつり。
皮膚の裂ける感触が刃を通して伝わった。
ぴりっとした痛みを感じると同時に、
心の声はどこかへ消えて行った。
あたしはカッターナイフを手首から離した。
刃を当てていた部分が、うっすら赤い線になっていた。
それから少し遅れて、赤い線の上に赤い玉が浮かんで来た。
あたしはそれをティッシュで拭き取った。
血はすぐに止まった。
ナースコールを押して、頓服の安定剤をもらう事にした。
その際、看護師にあたしの行為がばれてしまった。
しかしここは精神科病棟ではない。
ナイフを没収される事はなかった。
薬を飲んで横になり、
効き目が現れるのをおとなしく待った。
先ほど切り付けた左手首がぴりぴりと痛んだ。
久しぶりだったが、やはりリストカットは即効性が高い。
あれほどぐるぐると激しく渦巻いていた、
妄想の輪や心の声が一瞬で断ち切れる。
リストカットの理由としてよく、
血や傷を見る事で自分が生きている事を
確認、実感したいというものがある。
しかし、あたしには血や傷は何の意味も持たない。
アトピーで見慣れているからだ。
とりあえず、薬が効いてくる小1時間の間だけ痛ければいい。
それだけだ。
薬はいつも通り1時間ほどで効いてきて、
あたしは起きるでもなく、眠るでもなく、
うとうととしていた。
そこへ、
「こんにちはー」
晴れやかな声がした。
丸山先生である。
きっとリストカットの事を聞いてやって来たのだろう。
そして、案の定そうだった。
どうしてと聞くので、あたしはちょっと困ってしまった。
何しろ元凶は向かいのベッドにいる。
そこでホワイトボードを用いる事にした。
「なんか向かいの人が自分の悪口を
部屋のみんなに言っている気がする。幻聴?」
と、書いて先生に見せたところ、
「まあまあ、あまり気にしないで」
と、なだめられた。
この丸山先生は「まあまあ」的
カウンセリングが特徴のようだ。
そして、そろそろ気分安定剤の血中濃度を測ると言い、
ふらりと去って行った。
丸山先生が去ったあと、また鬱の波がぶり返して来て、
あたしはまた閉め切ったカーテンの中で、
うつうつと泣いていた。
そこへぺたぺたという足音がした。
「関屋さーん」
カーテンが開いて、寺内先生のムダにでかい体が
のそりと内股で入って来た。
「検査の結果が出たよ」
「えっ」
どきっとした。
寺内先生は検査結果が書かれた紙を、
テーブルの上にひらりと半分投げるように置いた。
「肝機能障害もなくなったし、予定通り来週末退院!」
彼はいろいろな染みのついた白衣の裾を、
わざわざめくりあげて、ズボンの上から
股をきゅっきゅっとひと通り揉んだあと、
くすっという彼独特のほくそ笑むような
笑いをあたしに投げかけた。
鬱状態のあたしが面白いらしい。
この「くすっ」の語尾には、
絶対音符かハートマークがついていると思う。
このおっさん、ほんとこういう無神経なところが嫌!!
しかもわざわざ白衣をめくってまで股を揉むか!?
きっとこのへんも彼がいまだ独身の理由に違いない。
寺内先生はすぐに去って行った。
あたしの胸には退院への不安と、
もっさいおっさんへの逆上が残った。
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