第10話 鬱モードスイッチ

「おや!」
あたしは声をあげた。
「姉ちゃん来たよ」
弟である。
「あんた、今日は免許の更新に行ったんじゃないの?」
母も弟の登場に驚いた。

と、いうのも免許センターは
どちらかというと地元寄りで、
この病院へは寄りにくいところにあったからだ。

「ちょっと会社の近くに買い物行ったついでだよ」
弟の働く会社はだいぶ南に行ったところの繁華街だ。
そこから寄るにしても、
病院の最寄り駅からバスに乗らなければならない。
しかもそのバスが1時間に多くて2本しかないときている。

「バスはどうしたの?だいぶ待ったんじゃない?」
そのへんのことをよく知っている母は弟に聞いた。
「それがさ、駅を出たらちょうどバスがあってさ、
15分ほどで来られたよ」
「へえ」
へんぴなところにある病院だから、
30分はかかるかと思っていたが15分とは。

これから退院後、外来で通院することは確実だろうから、
時間はかからないにこしたことはない。
「途中で牛がいたよ」
「牛!?」
「そうそう、牧場があってさ、そこに牛がいるんだよ」
「へええ」
さすがへき地の病院だ。

「姉ちゃん、こんな薄いふとんで寒くないの?」
弟もあたしと母と同じ事に驚いていた。
「それがさ、暑くも寒くもないんだよ」
「適温...と。そしていたれりつくせり...とも。」
「ふむ」
「超ごろごろ」
変な会話だが、これで通じるあたりが家族だ。

母と弟は道路が混んでいるとぶつぶつ言いながら、
6時前に帰って行った。
それから時間の経過と共に唇と舌が
どんどん痛くなってきた。
そのおかげで朝ほど食事を取る事ができなかった。
夕食は頼りのみそ汁もなく、
おかゆも3分かゆの汁の部分だけを
すくって食べただけだった。

お腹が減っているのに、
思うように食べられないのはゆうべに引き続き鬱だ。
食事の様子を聞く看護師にも、
帰り際に様子を見に来た寺内先生にも、
「口が痛くて食事を思うようにとれないことが一番つらい」
と、こぼす始末だった。

看護師はまあそのへんの事を心得ているのか、
共感を示してくれたが、寺内先生は、
「治るのにも段階があるから」
と、例のぼそっとそっけない口調で言っただけで、
そのままぷいと去って行った。
ちょっと待てコラ!!
それが主治医の態度か!?

思わず逆上してしまったが、この先生、
ひょっとすると他人と接するのが
あまり得意ではないのではないだろうか。
それでよく医者がつとまるもんだな。

夜、消灯時間近くになって薬剤師がやってきて、
スペアの塗り薬をくれた。
薬は言ってから実際出て来るまで
けっこうな時間がいるものらしい。
入院時に配られた書類の中にあった、
「入院手帳」なる闘病日記帳に、
昨日の分と今日の分を記入することにした。
これはあとあと読んでおもしろいだろう。

今夜も眠れないだろうなと、
トイレに行って横になった。
目を開けていても、目やにで視界がぼやけていて、
目を半分閉じているのと変わりなかった。

そのうちに消灯時間が来て、部屋の照明が消された。
しかし、昨晩と同じく隣のいびき&
テレビの灯り&乳幼児の泣き声で、
気持ちはよりいらいらとして、
とても眠るどころではなかった。

あまりにいらいらしすぎて、
今度は目の裏で何かがちかちかぐるぐるしはじめた。
なんか、スナック菓子の袋が
四つ葉のクローバーみたいな形になって、
目の裏をぐるぐるしている。
...そろそろやばいのかも。
そこでまたしても鬱モードスイッチが、
かちっと入ってしまった。
まずい。
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