第23話 印象

「うん、生きてるよ。パソコンの方なら大丈夫」
俺は表情を変える事なくそう答えたが、
内心どきどきしていた。
なにしろ、俺はこれでもかというほど女に縁がない。
女からこうやって、個人的に、
メールアドレスを聞かれる事は初めてだった。
「よかった。酒井さんにもメールしますね」
河村さんは笑った。
「うん、待ってる」
彼女から本当にメールが来るかどうかはあてにしていなかった。
きっと、俺の事なんて、すぐに忘れてしまうだろうから。
「あれ、携帯じゃないの?」
牧村さんが口を挟んだ。
「携帯は面倒臭いんだよ!」
俺は彼を蹴散らすように言った。
事実、俺は携帯メールは苦手だ。
メールを打つのにものすごく時間がかかってしまう。
それに、河村さんとメールするなら、
携帯で短文をやりとりするより、
パソコンでじっくりといきたいじゃないか。
「確かに、携帯はめんどくさいよ!」
河村さんも俺に加勢した。
「だって、“お”とか打つのに、
パソコンだとキーを1回打つだけで済むところ、
携帯だと5回も押すんだよ!?」
彼女が携帯をあまり好きでないのは、
なんとなく予想がついていた。
他の人は昼休みや仕事の合間に携帯を見たりしているのに、
彼女が携帯の画面をのぞいているのをほとんど見ない。
ましてや、メールを打つ姿なんて見た事もない。
 
その日、河村さんは定時で帰っていった。
彼女は、翌朝も始業時間ぎりぎりに出社した。
朝掃除もあらかた終わっていた。
午後になって、社長がデザイン部にやってきて、
仕事の予定について話したあと、
俺の服装について注意した。
俺は服装には気を使わないタイプだ。
そのへんにあるものを適当に着てしまう。
持っている服の数自体も少ない。
スーツは何着か持っているが、
普段に着る服となると本当に少ない。
「お前はいつまで冬の服を着ているんだ!?もう夏なんだぞ?」
確かにもう夏が来ている。 
しかし、この俺にいつ、
衣替えなんかする時間があるというのだ。
さらに社長は、俺のスーツの着方も気に入らないらしい。
体とスーツのサイズが合っていないのがその原因なのだが、
俺には社長のように、
金にあかせてオーダーメイドのスーツなんか作るような金はない。
何度注意されようが、金も時間もない俺には無理な注文だ。
それにしても、こんな事で社長に注意されるのは恥ずかしい。
俺はその度にみんなに笑われてしまう。
河村さんにも笑われてしまった。
どうやら、彼女の中の俺の印象は、
最後までかっこ悪いらしい。
その後、俺はクライアントと電話していて、
翌日午後から打ち合わせする事に決まった。
つまり、俺が河村さんと一緒にいられるのは、
明日の午前中までという事だ。
彼女も、俺の電話を横で聞いていて、
その事を察知していた。
 
この日は、俺も河村さんも残業していた。
俺は、来週末から出張へ行く事になっていて、
その準備に追われていた。
彼女は、やりかけの矢田さんとの仕事を、
なんとか形にしておこうと必死だった。
俺は、出張に行くクライアントとの過去の仕事や、
その資料などを整理していた。
俺は、2階にコピーをとりに行った。
コピー機は、2階のドアを入ってすぐ右の冷蔵庫の横、
社長室のドアの前に置かれているだけで、
3階のデザイン室にはなかった。
社長はケチだから、
このコピー機を使う事についてあまりいい顔をしない。
しかし、今日はもう社長も帰った後だから、
心おきなくコピーができそうだった。
2階には俺一人だけだった。
コピー機のあるあたりだけ電灯がつけられていて、
他のところは暗かった。
3階のドアが開いて、誰かが階段を降りて来る足音がした。
ギッと固そうな音を立てて、2階のドアが開いた。
入って来たのは河村さんだった。
どうやらトイレか給湯室を使おうとしているらしかった。
彼女は、コピーをとる俺を見て言った。
「酒井さん」
そういえば、彼女とはこんなふうに、
ふたりきりになった事がない。
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