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第21話 卑怯
「富家さん、今日までなの？」
河村さんは目を丸くして、富家さんに聞いた。
「はい、今日までです」
富家さんは、苦笑いした。
そして、みんなの方を向いて、小さく同じ挨拶をすると、河村さんと部屋を出て行った。
この時、みんなは社長の長話に邪魔された分を取り返そうと必死になっていて、それに気付く者はいなかった。
俺も電話の最中で、それには気付かなかった。
俺がその事を知ったのは、週明けに河村さんから、
「富家さんが辞めたなんて淋しい」
と、聞かされた時だった。
金曜日のあの後、富家さんと河村さんは、駅のマックでふたり小さくお別れ会をしたとか。
それを聞いた藤原さんは、
「富家さんは、家族の病状が悪いので、しばらく田舎へ帰っただけ」
と、反論した。
河村さんは、
「じゃあ、富家さん戻ってくるんだ、よかったあ！」
と、嬉しそうだった。
しかし、河村さんの情報の方が正しかった。
後に、富家さんはもう一度会社に来たものの、それは荷物の整理と退職の挨拶に来ただけだったからだ。
稲村くんは、富家さんの向かいに座っていて、彼女と話す機会もあったから、彼女の退職は事前に察知していたし、その詳しい理由もつかんでいたようだった。
家族の病気は建前だった。
やはり、仕事のきつさが原因のようだった。
この日も、仕事が入って残業していた。
河村さんは、その週までに仕上げなくてはいけない仕事をいくつか抱えていて、多忙をきわめていた。
定時をとうに過ぎ、一般家庭では夕食と思われる時間にさしかかっていた。
俺と東さんの間に置かれている電話が鳴った。
内線のようだった。
俺がとった。
電話は社長からで、河村さんを呼んでいた。
河村さんは、電話をかわったが、短い用件だったらしく、すぐに電話を置いた。
「何だろう、社長が10分後に社長室に来いって。何かまずいことでもしたのかなあ...」
彼女は青い顔をしていた。
彼女は、社長が苦手らしかった。
「そんなん、俺だってしょっちゅう呼び出されてるよ」
俺は笑った。
となりで東さんも笑っていた。
また電話が鳴った。
俺が取ると、社長が河村さんにすぐ来いとだけ言って切れてしまった。
河村さんは、メモとペンをもって部屋を出て行った。
30分ほどして、彼女は自分の席に戻って来た。
その顔は青白く、表情は消え失せていた。
彼女は小さく震えていた。
席に着くと、納期が近いにもかかわらず、その仕事を中断し、Macの電源を落とした。
そして、ロッカーから黒い、通勤用のかばんを持って来て、弁当箱をしまっていた。
もう帰るのかと思った。
でも違った。
彼女は、弁当箱だけでなく、机の引き出しの中の私物をかばんに次々と詰め始めた。
その手際は、ふだんの彼女からは想像もできないほどの素早さだった。
フォトショップとイラストレータのごつい解説本。
フランス語の辞典。
プライベート用の名刺。
そして、メモ帳やノートをめくり、何か書き込まれたページを大胆に引きちぎって捨てた。
仕事のやり方や予定など、重要な内容も含まれているだろうにもかかわらずだ。
書類も捨てた。
まだ要るもの以外全て捨てた。
捨てながら、彼女は泣いていた。
俺も、さすがにおかしいと思った。
でも、こんな時になっても、俺は何も言えなかった。
俺は卑怯だった。
藤原さんは社長に呼ばれていなかったし、牧村さんはすでに帰ったあとだったので、俺は稲村くんに近付き、河村さんの様子がおかしいと言った。
彼も同じ事を感じていた。
彼は口を開いた。
「河村さん、会社辞めちゃうの？」
河村さんは、ぼろぼろとこぼれる涙を、小さい子供がするように、手の甲でぬぐった。
「...辞めたくない。でも、辞めなくちゃいけない...！」
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