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第19話 経験
河村さんは、駅から自宅へ向かう途中、横断歩道を歩いていたところ、右折してきた運送業者のバンにはねられたらしい。
しかし、幸いにも外傷はなく、意識もはっきりしており、病院より帰宅後、すぐ会社に事故の報告のファックスを送ってきている。
彼女からのファックスは、読みやすい字で、図や箇条書きをまじえ、わかりやすかった。
事故の後すぐ、これだけのものを書けるなら、まず大丈夫だろう。
俺と東さんの机の間に置かれている電話が鳴った。
外からの電話のようだ。
俺は電話をとった。
「はい、神田デザイン事務所デザイン部です」
「あ、おはようございます、河村です」
「おはようございます、酒井です。どうしたんですか?」
「あの、昨日も電話いれたんですが、昨日交通事故にあってしまって、それで診断書を取りに病院行くので、今日は遅れます」
「社長には電話入れた?」
「いえ、まだです」
「社長には電話入れといた方がいいよ」
これは、俺自身が身をもって経験したことだ。
「社長の番号、知らないんですが...」
「じゃあ、今から言うから」
俺は、彼女に社長の自宅番号を告げると、気をつけてと言って、電話を置いた。
俺も電話は苦手な方だが、河村さんはそれ以上に苦手らしかった。
そんな彼女があの社長に電話するかと思うと、ちょっと気の毒になった。
それから、河村さんは午後になってから出社し、社長にもきっちり挨拶をしていた。
俺のあの経験が、彼女の中でしっかり生きていた。
その週の中頃、河村さんは、なんとかたまっていた仕事を片付けた。
少しは肩の荷がおりたようだったが、彼女にはもう次の仕事が控えていた。
また俺との仕事だ。
リーフレットの写真加工と、そのイラストの作成だった。
さすがに今度は、コミュニケーションもスムーズだった。
「酒井さん。この写真、どうしてもあとちょっとのところで黄ばみが取れないんですが」
「いや、これはもともと黄色っぽいものだからいいんじゃない?」
「ええー?」
彼女には、もう以前の硬い表情はなかった。
笑顔を見せる余裕さえあった。
何を話しても、そっけない態度しかとらない俺を相手に、河村さんはここまでくるのにどれだけ努力したのだろう。
藤原さんから、彼女が俺を苦手だと言ったと聞いたこともある。
俺のあまりの曖昧さに、まるで俺が別の言語をあやつっているようだと例えられた事もある。
でも、今は違うとはっきり感じる。
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