第16話 予兆

 最近、河村さんがよく笑うと思った。
 俺のすぐ横にいる今だってそうなんだけど、大体夕方ぐらいから彼女のテンションが上がって来て、何でもない事で爆笑していたりする。
 彼女いわく、
 「あまりの疲労にいっちゃってる」
 らしい。
 いっちゃってる。
 なんて表現だ。
 俺と河村さんと富家さんは、いろいろな話をしながら、小学校の横の暗い道を駅へ歩いて行った。
 河村さんの赤い帽子。
 女のフォーマル。
 男のフォーマル。
 東さんの歩く速度。
 どの話題にも、河村さんはころころとよく笑った。
 「笑いの沸点が低いんじゃねえ?」
 俺は、改札を通りながら言った。
 「そう?」
 彼女は、そう言いながら、やはり笑っていた。
 
 ホームに降りると、もうあらかた夜のラッシュが終わっていて、人もまばらだった。
 もう、夏といっていいくらい、暑い夜だった。
 この夜の熱気が、彼女の気持ちを高揚させているのだろうか。
 俺も、疲労とこの熱気で、彼女のいうところの「いっちゃってる」に近かった。
 俺と富家さんは同じ方角で、河村さんは逆の方角だった。
 河村さんは電車を1本見送った。
 富家さんが、俺たち3人に遠距離通勤者という共通項があることに気が付いた。
 富家さんの家も、河村さんの家も、それぞれ1時間前後かかるとのことだった。
 その中でも、俺が一番遠いらしい。
 そんな事を話していたら、俺と富家さんの乗る電車がホームに入って来た。
 河村さんは、
 「おつかれさま」
 と、言って手を振った。
 彼女は、最後まで笑っていた。
 俺は、彼女をよく笑う人だと思っていた。
 でも、彼女には別の顔があった。

 彼女は香水を変えた。
 前は、わかりやすい、バラの匂いの香水だった。
 今は、甘い、複雑な匂いの香水だ。
 彼女はもうあの時ほど笑う事はなかった。
 ため息も多くなった。
 仕事にも気が入らず、重要な時期にもかかわらず、ぼんやりしている時が多くなった。
 かと思うと、思い詰めた表情をしていたりする。
 彼女は明らかに疲れていた。
 でも、仕事は彼女に容赦なかった。
 納期の近い仕事が彼女の上で複数重なった。
 彼女は残業を重ねた。
 彼女の睡眠時間は削られた。
 そんなのが慣れっこになり、感覚の麻痺した俺なんかとは訳が違う。
 彼女がそれに耐えている事の方が不思議なくらいだった。
 仕事は、彼女の笑顔を、一枚一枚、確実に剥いでいった。
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