第11話 誰のために

 ぱん。
 社長の平手が俺の頬を打った。
 すごい力だ、容赦ない。
 俺は、ふっ飛ばされるようによろめいた。
 社長は何か叫んでいたが、何を言っているのか聞き取れなかった。
 俺が、体勢を立て直すと、ふたたび平手が飛んで、またよろめいた。
 ...これでお前の気が済んだか?
 社長は、元いた席に戻り、話を続けた。
 話しながら、俺を殴った手をさすっていた。
 東さんの向かいの席の鮎川さんという、30代の小柄な女性社員が、社長のそのさまを見て、目をうるませ、涙していた。
 社長のために流す涙かよ。
 泣きたいのは俺の方だ。
 でも、社長のせいで泣いてるなんて思われるのはごめんだ。
 それに、俺には社長や会社のために流す涙なんて、みじんもない。

 社長は、それからしばらく話をして、自分でまとめて、自分でうなずいていた。
 俺は、社長のこの癖が嫌いだ。
 虫酸が走る。
 誰も、口をはさむ者はいなかった。
 いや、社長がそうさせないのだ。
 社長の長い話から、やっと解放されると、4時を過ぎていた。
 当番の女性社員が窓際でコーヒー豆を挽きはじめた。
 そういや、コーヒーの時間がまだだった。
 もうひとり、富家さんがみんなのカップを集めていた。
 誰も、俺に声をかけなかった。
 正しくは、声のかけようがないと言った方がいいだろう。
 DTPチームで、俺の後ろに座っている矢田さんという40歳前後の男性社員が、
 「災難だったな」
 と、いわんばかりの視線を投げてきたので、俺は笑って、ごまかした。
 俺は、やっとの事で自分の席に戻った。
 
 今日は本当にさんざんだ。
 ため息をつきながら、やりかけの仕事に戻った。
 そして、俺はふっと何となく河村さんの方を向いた。
 彼女の様子に、俺は目を疑ってしまった。
 彼女は、涙をぼろぼろとこぼしながら泣いていた。
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