最終話 水脈

 2階に降り、社長にクライアントとの打ち合わせに行く
と挨拶してから、俺はタイムカードを打った。
 このタイムレコーダーは古いせいか、なかなかカード
を受け付けず、何度も入れ直すことが時々ある。
 今日はなんとか一度で通った。
 河村さんは、このタイムレコーダーに嫌われているよ
うで、十何回カードを入れ直しても受け付けられない事
がよくあり、そのたびに営業部の人に笑われていた。
 会社を出て、駅へ向かう。
 彼女が暗くて嫌だと言った、学校の横を通る道も、昼
間は明るく、閑静な住宅街だった。
 住宅街を抜けると、車通りの多い大通りに出る。
 彼女がついてくるのに必死だった道路だ。
 道路を渡って、商店街を抜け、駅前ロータリーを横
切って駅に入る。
 改札を通り、ホームに降りる。
 彼女が昨日の夜、笑って、泣いたところだ。
 あの時と同じように、電車がホームに入って来た。
 俺はひとり電車に乗り込んだ。
 ホームに彼女はいない。
 彼女は、もう明日から会社にいないのだ。
 感情の変化の激しい彼女の事だ、きっと俺の事なんか
すぐに忘れるだろう。
 もう、会う事もかなわないだろう。
 せつない。

 窓の外を、明るい景色が、光が、尾をひいて流れて行
く。
 俺は、こんな忙しい時期に、河村さんが辞めてその後
どうするのだろうとか、今日は何時に帰れるのだろうと
か、とりとめのない事を考えていた。
 明日から、またいつもの毎日が始まる。
 でも、彼女と出会う以前とは違う。
 色がある。
 彼女の多彩な表情。
 激しい感情。
 彼女が俺を好きだったかどうかわからない。
 俺が彼女を好きかどうかもわからない。
 でも、心が動いた事はまぎれもない事実だった。
 彼女の色は水脈をなし、今も俺の中で流れている。

 この日も、帰りが遅くなった。
 食事と入浴を済ませ、自分の部屋に入った時には、日
が変わろうとしていた。
 自分のMacを立ち上げる。
 寝る前のメールチェック。
 メールソフトを立ち上げ、ネットに接続する。
 受信トレイにある送信者名を上から見ていく。
 ダイレクトメールがほとんどだが、俺の目は途中で止
まった。
 河村 真美。
 河村さんからのメールが来ていた。
 すぐに開封して、目を通した。
 ...彼女とはこれからだと思った。
 俺は、返信ボタンを押した。


           
          「Adorer!」  完
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