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第1話 Null
俺は新宿の大型書店にいた。
力の限り立ち読みするつもりでいた。
最初は週刊誌から始まって、パソコン雑誌、新書、文庫本、プログラミング専門書...果ては心理学や文化人類学の専門書など、どんどん深くなっていく。
俺は、酒井 寛、27歳、都内のデザイン事務所に勤めている。
今の会社には、専門学校を卒業してすぐ入ったので、もう6年は経っている。
デザイン事務所だからって、特におしゃれな、かっこいい仕事という訳ではない。
事務所も古いし、回ってくるものも、地味なパンフレットやチラシやポスターだったりする。
クライアントとの打ち合わせにはスーツを着て行くが、ふだんは楽な格好で出勤している。
残業も多い。
社長がケチなのか、業界の常識なのか、それとも両方なのか、どんなに残業しても残業代は出ない。
休日出勤も同じだ。
そんなだから、できれば残業はしたくない。
しかし、受注から納期までの期間の短い仕事がたびたびあり、どうしても残業や休日出勤が重なる。
俺の毎日は、寝る、食事、仕事、食事、風呂、寝る、の繰り返しだ。
自分の時間もろくにとれない。
だから俺に彼女はいない。
友達と飲む時間もない。
ギャンブルもする暇すらない。
周囲からは「生きていて何が楽しいのかわからないやつ」と、思われているし、実際そう聞かれたこともある。
今日は、なんとか代休がとれたので、午前中いっぱいまで寝て、日頃の睡眠不足を補い、午後から気晴らしに街へ出て、この本屋に入ったのだった。
力の限り立ち読みしたら、どこかでちょっとだけ飲んで帰ろうと思っている。
それで俺の休日は終わりだ。
それだけだ。
また明日から激務の連続だ。
それでも時間は容赦なく流れてゆく。
何も不満はないはずだ。
仕事は確かに忙しいものの、やりがいはあるし、こうして休日には自分なりに楽しんでいる。
でも、何か物足りない。
贅沢な悩みなのだろうか。
会社の名前は、神田デザイン事務所という。
社長が神田庄治だからだ。
何もひねりのない会社名である。
現在50代後半の社長が40代の頃独立して、作った会社だから、できて15年くらいだろうか。
会社はさほど栄えているとはいえない駅から歩いて10分、15分かかる、住宅街の中に小さいビルを構えている。
社内には営業部とデザイン部がある。
社屋の1階は、倉庫とガレージになっていて、急な階段を上って2階に社長室、応接スペース、トイレ、給湯室、営業部がある。
営業部には3人ほどが所属しているが、人事の出入りが激しく、名前を覚える間もない。
3階には、デザイン部があり、10人ほどがいる。
机の配置は、手前にDTPチームを中心としたシマ、その横に広告チームのシマ、ドアから見て一番奥の右端に社長の机、その向かいにミーティング用の大きいテーブル、その横に画像処理チームのシマがある。
俺の席は、画像処理チームの真ん中の席で、ドアに背を向けて座る位置にある。
左隣には、1年ほど前からいる、パートタイマーの東さんという30代の主婦がいる。
右隣は、もうずっと空席のままで、その席のMacはプリンタサーバとして使われていて、スキャナもそこに接続されている。
3月も半ばを過ぎた頃だった。
その日、俺は、クライアントとの打ち合わせを終えて、社に戻ったところだった。
急な階段を上って、デザイン部のドアを開けた時、違和感を感じた。
違和感。
ずっと空席だった、俺の右隣の席が埋まっていたからだ。
そこには、女が座っていた。
彼女はどうやら面接者で、実技テストの最中らしい。
俺と同じくらいの歳だろうか、いや、もっと若いかもしれない。
しかし、俺は疲れていたので、それを気に止めず、席についた。
5時半の定時も近かった。
今日は納期間近の仕事もないので定時に帰れそうだ。
そんな事を考えていたら、耐えがたい眠気の波に飲み込まれて、うたた寝してしまっていた。
それが、俺とあいつの出会いだった。
疲れてうたた寝していた俺には、何も印象に残らない、ぼんやりとした出会いだった。 |
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